2012年2月6日
1年で聖書を!
◆ 民数記4-6
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。―ヤコブ1:17
私はシナモンが大好きです。シナモン・ロール、シナモン・ティー、シナモン・キャンディー、シナモン・トースト、シナモン・アップル、シナモン・プレッツェル。シナモンの香りのするものは何でも好きです。シナモンは素材の味を引き立ててくれるスパイスです。ところが私は、このシナモンがどこから来るのか、今まで知りませんでした。先日スリランカに行ったとき、インド洋に浮かぶこの島国で、世界のシナモンの90%が産出されていることを初めて知りました。長年シナモンの香りを楽しんできたのですが、これまで、産出国がどこなのか、考えたことさえありませんでした。
私の信仰の歩みは、残念ながら、これに似ているように思います。神は私にすばらしい妻と5人の子どもたち、そして、愉快な孫たちを与えてくださいました。私は、こんなに祝福されているのに、ときどき、この祝福の源(聖歌273番の作者は「いのちのいずみ」と呼びました)について考えることを忘れてしまいます。ヤコブは「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」と語っています(ヤコ1:17)。
万物の源である天の父に感謝することなく、人生の豊かな恵みを楽しむならば、これほど恩知らずなことはないでしょう。
(Bill Crowder)
感謝とは神を賛美する態度のことだ。
カテゴリー: 感謝 |
2012年2月5日
1年で聖書を!
◆ 民数記1-3
御霊に満たされなさい。……主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。―エペソ5:18-19
さわやかな初夏の夕暮れどき、大学時代の友人が野外コンサートを開き、美しい会場は満席になりました。その日は友人の誕生日でもあったので、司会者は彼のために「ハッピー・バスデー」の歌を歌おうと提案しました。聴衆はそれぞれに歌い出しましたが、音程もテンポもばらばらです。音もことばもごちゃごちゃで、メロディもなっていません。とても美しい歌とはいえず、惨憺たる出来ばえでした。友人がステージに登場すると、もう一度やってみようということになりました。やっぱり音は合いませんでしたが、彼が拍子を取ってくれたので、少なくともみんなで一緒に歌うことはできました。そして歌が終わる頃には、何となく合唱といえる感じになっていました。
歌になるはずの雑音を聞きながら、私は、初代教会の抱えていた問題を思いました。彼らは、自分たちのリーダーについて合意できませんでした。ある人はパウロにつき、別の人はアポロにつきました(Ⅰコリ3:4)。そして、ねたみや争いが起こりました(3節)。歌ではなく雑音を作り出してしまったのです。リーダーについて合意できないと、(それぞれが自分に合った音程やテンポで歌うように)みんな、自分のやりたいようにしがちです。
クリスチャンでない人がイエスに心を惹かれるような音楽を奏でたいと思うならば、すべてのクリスチャンは唯一のリーダー、つまりキリストに従わなければなりません。
(Julie Ackerman Link)
キリストと音を合わせれば、教会の中で調和を保つことが出来る。
カテゴリー: 一致 |
2012年2月4日
1年で聖書を!
◆ レビ記24-27
わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。―イザヤ書55:11
ハンガリーの作家カリンティ・フリジェシュが80年前に「鎖」と題した短編小説を書いて、全世界のどんなふたりでも、5人以下を介して必ずつながっているという仮説を立てました。近年この仮説は再び勢いを得て、「六次の隔たり」と呼ばれています。もちろん、これは証明された理論ではありませんが、世界中の人たちをつなぐ力学というものは確かに存在します。それは神の知恵と摂理です。神の知恵と摂理は、みことばを通して生きていて、神のみこころは成し遂げられます。
数年前、一度も会ったことのない男性から手紙が届きました。私が近所の友だちに送ったカードが、めぐりめぐってこの男性に届き、当時、疲れきって望みを失いかけていた彼を励ましてくれたというのです。私がカードを送った友人が、それを別の友人に渡し、その友人がまた別の友人に渡して、やがて、彼のところにたどり着いたようでした。
神の知恵に導かれて書いた愛のひとことが、聖霊の翼に乗って誰かのところに届けられ、その人の人生を永遠に変えることになるかもしれません。
ですから、神のみことばで自分自身を満たしましょう。そして、神のみことばを祈り心で届けましょう。それが神の目的にかなって用いられることを祈りつつ、そのようにしましょう。
(David Roper)
花は自分の香りがどうなるのかを知らないように、私たちも自分が周りにどう影響を与えるか知らない。
カテゴリー: 影響, 聖書 |
2012年2月3日
1年で聖書を!
◆ レビ記20-23
私が福音を弁証するために立てられている―ピリピ1:16
チャールズ・フィニーは29歳の弁護士でしたが、自らのたましいの救いについて考えるようになりました。そして、1821年10月10日、自宅近くの森の中で祈っていました。そのときです。まさに劇的な回心を体験しました。彼は「聖霊が、身体と心をつきぬけていったように感じた。まさに、愛の波が大水のように押し寄せてきたようだった」と書いています。
翌日、フィニーは仕事の依頼人に、「私は主イエス・キリストのお抱え弁護士になりましたので、あなたの弁護士を続けられません」と言って法曹界を去り、伝道者になりました。その後、フィニーは神に大いに用いられ、多くの人々をキリストへ導きました。
使徒パウロも、主の弁護をするために召されました。「私が福音を弁証するために立てられている」(ピリ1:16)というみことばで「弁証」と訳されている単語は、当時の法廷で案件を訴える弁護士を表すために使われていた言葉です。全てのクリスチャンは、神の恵みによって救われる、という「福音」を人に伝えるように召されています。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリ5:20)とパウロが語るとおりです。
福音宣教のために用いられるとは、何とありがたいことでしょう。
(Dennis Fisher)
キリストの良い知らせは、自分だけに留めておくにはもったいない。
カテゴリー: 証 |
2012年2月2日
1年で聖書を!
◆ レビ記17-19
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。―詩篇91:2
契約の箱(天幕の中に置かれ、神の御座を象徴するもの)をめぐっては、誰も彼もが勘違いをしていました。イスラエルはペリシテ人との戦いに敗れると、「契約の箱をわれわれのところに持ってこよう。そうすれば、それが…われわれを敵の手から救おう」と言って、シロヘ使いをやりました。
契約の箱がエベン・エゼルのイスラエル軍の陣営に到着すると、全イスラエルは大歓声を上げ、それがアフェクに陣営を張っていた敵陣まで聞こえました。するとペリシテ人には恐れが、イスラエル人には勇気が芽生えました。
ところが、これは勘違いでした。イスラエル人は、戦場に契約の箱を持ち込みましたが、またもやペリシテ人に打ち負かされ、神の箱は奪われました。一方、ペリシテ人は病に打たれ、彼らの偶像の神は倒れてしまいました。
ペリシテ人の信仰は偶像礼拝なので、あんな勘違いは当然かもしれませんが、イスラエル人は、もう少しましでなければならないでしょう。彼らは契約の箱の扱いについて、神の判断を仰ぐべきでしたが、そうしませんでした。彼らは、契約の箱が過去に戦場に運ばれたことを知っていましたが(ヨシ6章)、エリコを破ったのは契約の箱ではなく、神のご計画でした。イスラエル人はそのことを忘れてしまったようです。
私たちがいかなる財産や才能を持っていたとしても、神のご計画に沿って使わないなら、成功することはできません。神のみことばを学んでみこころを知り、方向性について祈り、神の導きを信じましょう(詩91:2)。信仰によって踏み出すときは、まずそうしましょう。
(Dave Branon)
人は一部分しか見ることができないが、神は全体を見られる。
カテゴリー: 従順, 神の導き |
2012年2月1日
1年で聖書を!
◆ レビ記14-16
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。
―ルカ1:35
クリスマス・チャリティーや歳末助け合い運動の募金は12月の恒例行事ですが、その期間が終了すると、困っている人を助けようという機運はしぼんでしまいます。「クリスマスの慈善の精神を一年中持っていられたら良いのにね」と話し合う人もいますが、なぜ慈善や親切がカレンダーに縛られているのでしょう。クリスマスは何となく心温まるシーズンですが、雰囲気に流されるのではなく、尽きることなく溢れ出る泉のような深い慈しみやあわれみは無いのでしょうか。
ルカ1~2章を見ると、聖霊が7回も登場します。聖霊の働きは、バプテスマのヨハネ(1:15)、マリヤ(1:35)、エリサベツ(1:41)、ザカリヤ(1:67)そしてシメオン(2:25-27)の人生に関わりました。「クリスマスの物語」と呼ばれるこの場面の中に、「何となく心に浮かんだ」とか、「そういう雰囲気になった」という記述はありません。聖霊が、シメオンを導いたり、ザカリヤとエリサベツを満たしたり、マリヤに赤ちゃんを宿らされたりしたと、聖書は明白に記しています。
私たちもマリヤやエリサベツのように、雑音の中から聖霊の声を聞き分けることができるでしょうか。聖霊の促しに敏感に反応し、即時に従うことができますか。あなたの心を満たされた聖霊の愛を、あなたの手の業を通して溢れ出させることに心を留めていますか。
キリストの御臨在と力は今、聖霊によって、私たちのもとにあります。クリスマスの霊であるお方は、一年を通して永遠の真理であり、永遠の愛です。
(David McCasland)
聖霊が来て、私たちとともにいてくださるために、イエスは天に昇られた。
カテゴリー: 聖霊 |
2012年1月31日
1年で聖書を!
◆ レビ記11-13
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。―ヨハネ14:27
何年も前、私は暴走族と一緒にオートバイを乗りまわしている青年と知り合いました。彼は外国で育った宣教師の息子で、帰国した後のアメリカの生活に馴染めないようでした。彼は問題児として過ごし、ギャングの抗争で殺されました。
今まで多くの葬儀を執り行いましたが、これほど印象深いものは初めてでした。それは小さな湖を囲んですり鉢状に草地が広がる公園で行われました。彼の友人たちは円陣を組むようにオートバイを止め、私ともう一人の牧師を真ん中に草の上に座りました。私たちは、抗争の和解がもたらす平和と、イエスの愛が与える内なる平和について短く話をしました。
その後、暴走族のメンバーのひとりが、私たちに礼を言いに来ました。そして、帰り際に振り向いてこう言ったのです。「俺には自分の部屋も、バイクもあるし、彼女もいる。でも、平和はないな。」私は、この言葉を忘れることができません。私たちは再び、平和の君であるイエスについて話をしました。
高級外車に乗っていても中古のミニバイクしかなくても、家が豪邸でも6畳一間のアパートでも、恋人がいてもいなくても、そんなことは平和とは無関係です。イエスが心におられなければ、心の平安はありません。イエスは「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」と言われました(ヨハ14:27)。平安は、イエスを信頼するすべての人に与えられます。あなたは、神の平安をくださいと求めましたか。
(David Roper)
イエスは神の平安を与えるために、私たちの身代わりとなって死なれた。
カテゴリー: 平安 |
2012年1月30日
1年で聖書を!
◆ レビ記8-10
すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。―Ⅱコリント1:3-4
ハロルドとキャシーとふたりの息子は、ミネソタ州の森林で竜巻に遭遇しました。数年後、キャシーはその体験を話してくれました。
「主人と長男は離れたところにいましたが、次男と私は小屋に逃げ込みました。100両連結の汽車がやって来るような轟音(ごうおん)が聞こえて、とっさに床に身を伏せました。まもなく小屋は裂けて壊れていき、板切れが飛び回り、私は目を閉じました。エレベーターに乗ったような感じがして、次にビュンと空中に打ち上げられました。そして、湖の上に落とされたので、浮いている木切れにしがみついたのです。」
悲しいことに、彼らの次男は亡くなりました。ハロルドはこの不幸についてこう述べています。「私たちは6週間、毎日泣きました。私たちは、愛なる神が主権者であること、また、私たちが竜巻に襲われることを許されたと信じています。次男はイエスを自分の救い主だと信じていましたから、そのことにも慰められています。」
愛する人を亡くして取り残されたとき、様々な疑問が心に生まれるかもしれません。そのとき、ローマ人への手紙8章28節のみことば、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」が、大きな慰めになります。この夫婦は、主権者である神は愛だと信じました。そして、悲しくても慰められました(Ⅱコリ1:3-4)。
(Dennis Fisher)
悲嘆の中で最大の慰めは、神がすべてを治めておられると知っていることだ。
カテゴリー: 悲しみ, 神の主権 |
2012年1月29日
1年で聖書を!
◆ レビ記5-7
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。……わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。―ヨハネ15:15
英単語の変遷を追跡する専門家は、2009年の新オックスフォード・アメリカ英語辞典の「ワード・オブ・ザ・イヤー」(今年の言葉)に「unfriend」(「友」を意味する単語に否定の接頭詞をつけた)を選びました。そしてその意味を、「フェイスブック」のようなインターネットのソーシャル・ネットワーキング上の「友だち」を、その設定から除外するということと定めました。
「フェイスブック」の「友だち」とは、互いの個人情報にアクセスできる人のことです。実際には、会ったり、声を聞いたりしたことは無いかもしれません。私たちは、ネットの世界で束の間の「友だち」を作ったりする一方で、かつてないほどに本当の友の意味を考えています。
イエスは弟子たちを「友」と呼んで(ヨハ15:15)、互いに相手のために献身する特別な関係について教えられました。ご自分の「いのちを捨てる」(13節)ほんの数時間前に、友情を示して欲しいと弟子たちに向かって言われました。イエスの「命じることを…行う」(14節)ことによって、そうして欲しいと言われたのです。最も驚くべきことは、たぶんこれでしょう。イエスは「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と言われたのです(15節)。
真の友情で結ばれているなら、友の誠実さは、失意や不安の時の支えとなります。イエスこそが、常に誠実な永遠の友です。
(David McCasland)
どんな親友でも、キリストに比べるならただの陰だ。
カテゴリー: 友情 |
2012年1月28日
1年で聖書を!
◆ レビ記1-4
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。―マタイ5:7
サメが襲ってくるのはほとんどの場合が水中に血の気配を察知したときだ、と研究者たちは言います。血はサメの摂食メカニズムの引き金となります。そして大抵の場合、複数で獲物を襲撃し、血に狂ったように競って獲物をむさぼり食うのです。水中に血を流すのは、サメを恐れる者にとって自分を危険にさらすことです。
悲しいことに、傷ついた人たちに対してこのように対応する教会の人たちがいます。教会は、互いに手を差し伸べ、心を配り合い、共に成長する共同体であるべきですが、互いの失敗や欠点という「水中の血」を探して論じ合う危険な場所にもなりえます。そうなるなら、サメの食事のような状況になってしまいます。
落ち込んでいる人を足蹴にするのではなく、その人が立ち直れるように、キリストにあって励ましの手を差し伸べるべきです。もちろん罪を容認するのはいけませんが、主はあわれみ深くありなさいと呼びかけておられます。イエスは「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」と言われました(マタ5:7)。あわれみとは、受ける資格のない人に与えられるものです。私たちが受けるべきものは、永遠のさばきでした。このように私たちをあわれんでくださった神が、互いをあわれみなさいと教えておられます。
水中に血を見つけたら、あわれみの手を差し伸べましょう。人にあわれんでもらわなければならない日が、私たちにも訪れるかもしれないのですから。
(Bill Crowder)
人をあわれまなくてもよいときは、キリストが私たちをあわれまなくなったときだ。
カテゴリー: あわれみ |